活躍した嘗ての会員OBを思う・・・

第1回 梅原龍三郎 第2回 宇治山哲平 第3回 香月 泰男 第4回 小牧源太郎 第5回 須田 剋太 第6回 伊藤 廉
第7回 松田 正平 第8回 川口 軌外 第9回 里見勝蔵 第10回 庫田 叕 第11回 宮 芳平 第12回 久保 守

第2回 宇治山 哲平
宇治山哲平美術館
大分県日出市豆田町8-12 TEL0973-22-6300
宇治山哲平先生の思い出

 確か昭和22年だったと思う。時々、あの当時では背の高いほうだったと思うが、少し髪が波打ったオカッパ頭の30代後半の男が町を闊歩しているのを見かけるようになった。
 ルパシカみたいの白い厚手の生地の丸首が黒で縁取られたシャツを着て、腰の辺りを真田紐みたいな帯で右側で結んでだらりと下げていた。薄い眉に黒い点を打ったような瞳をして柔和な山羊みたいな感じだった。あのころは珍しかった紐のない踵の磨り減った靴を履いていた。後で流行ったヒッピーそのものだった。
 あの人誰?と父に聞くと、絵描きのテッペイさんだよ。代書人の掌吉さんの息子さんだと言った。後で知った事だが、勤めをやめて絵かきになるんだと故郷に帰って来たそうだ。絵かきで食えるんだ凄いなーが偽らざる気持ちだったが、はた目にも生活の苦しさは感じられた。
 前の年、新憲法発布記念ポスターで2位になったり、絵は好きで小さいころから描いていたので油絵と言うものを見たいなーと思った。道ですれ違うといつの間にか会釈をするようになっていたのでお互い顔見知りにはなっていた。
 先生も私も通った男子校と言う小学校の運動会の日、観覧席の後ろから背伸びして徒競走を見ていた。たぶん息子さんが走っていたのだろう。思わず絵を見て下さいと頼んだ。二つ返事で、「おお、いいよ。すぐ持っておいで」とそのまま近くの自宅にすたすたと帰った。私は息せき切って家に帰り何枚かの水彩を持っていった。どう言われたかは忘れたが初めて訪れた先生のアトリエは強く印象に残っている。1坪ほどの玄関は絵の置き場になっていて50号くらいのキャンバスが裏返しに10数枚立て掛けてあった。左の庭に面した角の6畳間がアトリエだった、1面は壁でもう1面は襖で仕切られていた3尺ほどの濡れ縁が裏の部屋へ伸びていた。所狭しと立て掛けた絵は皆表を見せて蓮や静物などが描かれていた、今年の国展の絵だと正面におかれていたのが「静物 白」だった。小さいイーゼルの前には古びた虎?の毛皮が敷いてあった。先生と私と2人座ると1杯と言う感じだった。

華厳 No.13 宇治山哲平美術館蔵
華厳 No.13  宇治山哲平美術館蔵
 正直言って私は油絵は日田中学校に何点か飾られていた初代の図画教師であった庄野宗之助先生(哲平先生の恩師)の作品しか知らなかったので、理解するのに暫くかかった。
 先生の回りには沢山の絵かきの卵が集まって来た。日田高等女学校に勤めていた岩尾秀樹さん、京都絵専に居てまだ学生だった岩沢重夫さん木下章さんなど、ときどき中津の長野静司さんが来て紹介された事もあった。もう早く亡くなったが、そのころ福岡で朱貌社を一緒にやっていた日本画家の上田宇三郎さんがたずねて来て、たまたま持って行った私の絵を批評して貰ったこともあった。
 昭和36年には、その年に創立された大分県立芸術短期大学の教授になり別府に居を移した。先生の周囲に若い絵かき達が集まって居た。松野良治さんや谷口晶之君などが直立不動の姿勢で先生の話を聞いていた。昔言い慣れたてっぺいさんという言葉はもうとても出せなかったが何となくうれしかった。

国画会準会員
初代宇治山哲平美術館長 伊藤忠雄

略歴

1910年 (明治43年)9月3日生まれる。
1931年 国画会に初めて油彩画「冬山」「山腹」を出品福島繁太郎の知遇を得る。
1951年 宇治山哲平展(以降、毎年東京